一個のケーキで、ほかの人の千倍うれしくなる人がいたら、ケーキは全部その人へ渡すべきでしょうか。幸福の合計を増やすだけなら、そう見えるかもしれません。「功利の怪物」は、その結論をどこまで受け入れられるかを問う思考実験です。
功利の怪物とは
功利の怪物は、ほかの人の犠牲から、その人たちの損失をはるかに上回る効用を得る存在です。ロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で示した、功利主義への批判として知られています。
功利主義は、行為やルールの結果がもたらす幸福や苦痛などを重く見る考え方です。そのうち総量の最大化を重視する仕組みでは、怪物に資源を集中させる方が合計が大きくなってしまうのではないか、という問いが出てきます。
ノージックの原文の功利の怪物の箇所は、他人の損失よりも大きな利益を得る怪物へ、人々が犠牲にされる問題を短く描いています。ケーキの例は、この構造を考えるための分かりやすい置き換えです。
ケーキの計算をしてみる
ここからは架空の数字を使います。普通の人はケーキ一個で1の効用を得る。怪物は一個で1,000を得る。追加で何個食べてもこの増え方が続き、効用を同じ単位で比較できると仮定します。
| 十個の配り方 | 効用の合計 |
|---|---|
| 普通の十人へ一個ずつ | 10 |
| 怪物へ一個、普通の九人へ一個ずつ | 1,009 |
| 怪物へ全部 | 10,000 |
合計だけを最大化するなら、全部を怪物へ渡すことになります。普通の人が何も得られなくてもです。さらに、その人たちの不満や損失を上回るほど怪物の利益が大きい設定なら、不利益を計算へ加えても結論は変わらないかもしれません。
問題は、わがままな人が大声で欲しがることではありません。思考実験では、本当に桁違いの効用を得ると仮定しています。
合計と、分け方は別の情報
十人全員が少しずつ満足する社会と、一人だけが非常に満足する社会。合計が同じでも、私たちは同じ社会だとは感じないかもしれません。
総量を増やすことに価値はあります。しかし、その数字だけでは、誰が利益を得たか、誰が負担したか、最低限必要なものを得られたかが見えません。全体の合計を見ることと、個々の人の扱いを見ることを両方できるかが論点になります。
「最大多数の最大幸福」という言い方も、「大勢の人が得をすること」と「幸福の総量が最大になること」を混同しやすい表現です。怪物の例では、総量が増えても、恩恵を受ける人数は増えません。
幸福を、人どうしでどう比べるか
現実には、私のうれしさとあなたのうれしさを、同じ物差しで正確に千倍と測れるわけではありません。「私はすごく喜ぶから、全部ほしい」という自己申告だけで、配分が正当になることもありません。
この問題を考えるなら、何を効用として数えたのか、比較の根拠は何か、見えていない負担はないかを問う必要があります。数字を使うと議論は明快になりますが、数字を置いた理由まで省いてよいわけではありません。
どんな応答が考えられるか
- 権利や同意を制約として考える。合計が増えても、他人を一方的に犠牲にしてよいとはしない。
- 分配も評価に入れる。合計に加え、格差や最も困っている人の状態などを見る。
- 長期の結果やルールを見る。一回の配分だけでなく、信頼や協力、制度が続く影響を考える。
- 怪物という設定を検討する。人の効用をどう比較するか、無制限の増え方を置けるかを問い直す。
どの応答も、言葉を足せば問題が消えるというものではありません。たとえば、長期の不利益がないという条件まで加えた場合、まだ何を理由に拒否するのかを説明する必要があります。
「全体のため」を、もう少し具体的に
功利の怪物は、功利主義のすべてを一言で否定する道具ではありません。結果の合計だけを重視する考え方が、極端な配分をどこまで受け入れるのかを試す例です。
関連する臓器くじやトロッコ問題と比べると、人数、幸福、権利、手段のどれを重く見たかが整理できます。
日常で「みんなのため」と言われたときも、誰にどんな利益があり、誰にどんな負担があるかを一度広げて見る。合計の大きさに感心するだけで終わらない、その問い方を持ち帰りたいと思います。

引用元で既にケーキという十分なたとえがあるのにちょっとひとつまみ男性蔑視をいれるのを忘れない
なぜならわたしが気持ちいいから
これも功利の怪物といえよう