姿も脳の構造も、自分とまったく同じ存在が突然現れたとします。その存在は家へ帰り、友人に挨拶し、昨日の話をします。けれど、昨日を一度も生きていません。スワンプマンは、「今の状態が同じ」と「同じ過去を持つ」の違いを考える思考実験です。
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沼で生まれた、物理的な複製
哲学者ドナルド・デイヴィッドソンは、「Knowing One’s Own Mind」で、この場面を描きました。沼のそばで雷により本人が失われる一方、偶然、別の分子から本人と物理的に同じ複製ができます。
複製は元の人と同じように動き、友人へ挨拶し、家へ帰ります。外からは違いが分かりません。この存在が、スワンプマン、つまり「沼男」です。
現実に雷で人間の複製ができるという話ではありません。物理的な状態を同じと仮定して、過去との関係を切り離すための仕掛けです。
「覚えているように見える」と「覚えている」
スワンプマンが「昨日、友人と海へ行った」と言ったとします。元の人は本当に海へ行っていますが、スワンプマンは今生まれたばかりです。
本人が体験した出来事から生じた状態と、偶然その状態と同じになったものは、どちらも同じ記憶なのでしょうか。ここで「記憶」を、頭の中の状態だけで考えるか、実際の経験とのつながりも含めるかが問題になります。
だから、最初から「本人と同じ記憶を持つ」と言い切ると、問いたい部分を先に決めてしまいます。まずは、同じ記憶があるように話し、振る舞う存在と考える方が、問いが残ります。
言葉の意味には、学んできた歴史も関わる?
デイヴィッドソンが注目したのは、本人かどうかだけではありません。言葉や考えの内容を、頭の中の状態だけで決められるかという点もあります。
本人は、家を見たり住んだりする中で「家」という言葉を覚えました。スワンプマンには、その経験とのつながりがありません。デイヴィッドソンは、この違いから、現れた直後の複製が本人と同じ意味で言葉を使うことに疑問を向けます。
ただし、人工的に生まれた存在は永遠に考えられない、とする話ではありません。外界と関わり、新しい歴史を得ていくことは、別に考えられます。
よく似ていることと、同じ一人であること
同じ仕様で作った二台の端末は、同じ動きをするかもしれません。でも二台あります。性質が同じことと、一つの物であることは違います。
本人が生きたまま複製も現れる変形を考えると、この違いがはっきりします。二人が別々の道へ進んだら、その後の経験も違います。「そっくりだから、どちらも一人の同じ本人」とするだけでは、分かれた後を説明しにくくなります。
一方、元の人がいなくなり、複製だけが関係を引き継ぐなら、周囲が同じ人として扱いたくなる理由もあります。身体、経験のつながり、社会での扱いの、どれを重視するかで考え方が変わります。
物理主義なら同じ人、と決めるのも早い
物理的な世界を重視する立場でも、現在の形だけでなく、時間を通じたつながりを重視できます。逆に、心を重視する立場にも、何を心の連続性と考えるかという違いがあります。
そのため、「物理主義なら同一人物、心を重視すれば別人」と二つに分けるだけでは、議論を十分に表せません。どの条件を本人である基準にしているのかまで、言葉にする必要があります。
哲学ゾンビとの違い
哲学ゾンビは、物理的に同じでも主観的な経験がない存在を想定します。スワンプマンでは、元の人との歴史的なつながりがないことが中心です。「どちらも人に似ているから同じ話」とは言えません。
また、遺伝子が同じだけでは、脳の状態や人生の経験まで同じにはなりません。通常のクローンを、そのままスワンプマンと考えることもできません。
コピーできる情報と、コピー元であること
ゲームのセーブデータをコピーすれば、同じ進行状態から遊べます。でも、一方を進めれば二つのデータは分かれます。画面上の状態が同じだからといって、それぞれがたどった操作の歴史まで同じにはなりません。
これは、人の記憶がファイルと同じだという結論ではありません。状態と来歴を分けるための身近な例です。テセウスの船も合わせて考えると、「同じ」という短い言葉の中に、いくつもの基準が隠れていると気づけます。

