一人を犠牲にすれば、複数の人が助かる。その人数だけで、行うべきことは決まるのでしょうか。「臓器くじ」は、人を救うという目的と、一人を手段にすることの間にある緊張を浮かび上がらせる思考実験です。
臓器くじとは
臓器くじは、移植を必要とする人を助けるために、健康な人をくじで選び、その人を犠牲にして臓器を提供させるという架空の制度を考える問題です。ジョン・ハリスの1975年の論文「The Survival Lottery」で知られています。
これに近い移植の思考実験として、五人の患者がそれぞれ異なる臓器を必要としており、一人の健康な人から臓器を取れば五人とも救える、という設定もあります。五人と一人の例と、社会全体でくじを引く制度の例は、分けて考えると論点が見えやすくなります。
どちらも、適合する臓器があり移植が成功するなどの条件を置いた架空の話です。現実の移植医療をそのまま描いたものではありません。
人数だけなら、複数人を救う方がよく見える
救われる命の数に注目すると、一人より五人を救いたいという考えには分かりやすさがあります。一人を犠牲にしなければ、五人が助からないという設定なら、何もしないことにも重い結果があるからです。
ただし、「結果を重視する立場なら、迷わず一人を犠牲にする」とは限りません。制度への恐怖や医療への信頼、今後の影響まで結果に含めれば、数えるべきものは目の前の人数より広くなります。
逆に、そうした不利益がない理想的な条件をさらに加えたときも、同じ選択をするでしょうか。結果がよいから認めるのか、結果とは別に越えてはいけない線があるのかが問われます。
くじで選べば、公平になるのか
誰かが好き嫌いで選ぶより、全員が同じ条件で抽選される方が公平に見えるかもしれません。しかし、「選び方が公平」と「その制度を行ってよい」は別です。
たとえば、全員から同じ確率で一人を選び、その人の財産をすべて奪う仕組みを想像してください。当たる確率が平等でも、財産を奪ってよい理由が自動的にできるわけではありません。身体や生命なら、問題はさらに重くなります。
一方で、くじを拒否する立場にも問いは残ります。移植を待つ人が助からないことを、どのように考えるのか。犠牲を強制しないまま支援を増やす方法はないのか。制度への反対と、患者を支えないことは同じではありません。
トロッコ問題と何が違うか
トロッコ問題にも、五人と一人という比較が登場します。でも人数が同じでも、行動の構造は違い得ます。
| 見る点 | 問い |
|---|---|
| 危険がどこから来たか | すでに進行している危険を変えるのか、新たに一人へ危害を加えるのか。 |
| 一人の犠牲の位置づけ | 救助の副作用なのか、その人の身体を使うことが救助の手段なのか。 |
| 本人の同意 | 自分で提供を選ぶのか、他人や制度が一方的に決めるのか。 |
| 制度としての影響 | 同じルールが繰り返された社会を受け入れられるか。 |
これらの違いをどの程度重く見るかで、二つの問題への答えが変わります。「同じ人数だから同じ答えでなければならない」と決めつけず、自分がどの違いに反応したのかを探してみましょう。
助けたい気持ちと、本人の選択
自分から大きな負担を引き受けることと、他人がそれを強制することには違いがあります。「助かる人が多い」と説明されても、負担する人の同意がなければ、話は終わりません。
身近な議論でも、「みんなのため」という言葉に出会ったら、利益を受ける人だけでなく、負担する人、その決め方、拒否できる余地を見たいところです。日常の負担を生命の犠牲と同一視する必要はありませんが、見るべき構造は参考になります。
臓器くじの面白さは、冷たい計算と温かい感情を対立させることにはありません。救われる人数を真剣に考えながら、一人の権利も見失わずに考えられるか。簡単にはまとまらない理由を、一つずつ言葉にするところにあります。
