嘘つきのパラドックスは、「この文は偽である」という文を真と考えても偽と考えても、反対の答えへ戻ってしまう問題です。嘘を見破る心理テストではなく、言葉が自分自身の真偽を語るときの論理の難しさを扱います。
一文を二通りに判定してみる
この文は偽である。
ここで「この文」は、引用したその一文自身を指します。まず真だと仮定すると、書いてある内容のとおり偽になります。次に偽だと仮定すると、「偽である」という内容が成り立たず、真になるように見えます。
| 出発点 | その内容から出る結果 |
|---|---|
| 文は真だ | 文が述べるとおり、文は偽だ |
| 文は偽だ | 「文は偽だ」は成り立たないので、文は真だ |
普通に真か偽のどちらか一方を割り当てようとすると、落ち着く先がありません。ただし、現実の時計の針のように「時間とともに真偽が交互に変わる」という実験結果ではありません。真偽の割り当ての条件が衝突しています。
「私はいつも嘘をつく」と同じ?
必ずしも同じではありません。「私はいつも嘘をつく」が偽なら、その人が少なくとも一度は本当のことを言った可能性が残ります。今の発言が偽でも、過去の別の発言が真なら矛盾しません。
一方、「この文は偽である」は、一文自身の真偽を直接問題にします。「いつも」「全員」といった範囲を広げた言葉を外すと、どこで輪ができているかがはっきりします。
二つの文に分けても、輪は作れる
A「Bの文は真である」。B「Aの文は偽である」。この二つを組にして考えると、Aが真ならBも真になり、Bの内容からAは偽になります。Aが偽でも同じように反対の判定へ進みます。
一文に「この文」と書かないだけでは、問題が消えるとは限りません。直接の自己言及と、複数の文を経由した循環を区別することができます。
解決の考え方には何がある?
文について語る言葉と、その文が属する言葉の階層を分ける方法があります。また、すべての文に普通の真偽を与えることを見直したり、矛盾が出ても何でも導けるわけではない論理を考えたりする方法もあります。
ただ「真でも偽でもない」と言えばすべて済むわけではありません。「この文は真ではない」という形に変えると、新しい難しさが生まれます。どの表現を許し、どの推論規則を採用するかまで含めて検討する問題です。
嘘をつく意図と、文が偽であることを分ける
勘違いで間違ったことを話す人もいれば、真実を使って人を誤解させる人もいます。日常語の「嘘」には意図や文脈が関わりますが、このパラドックスの中心は文の真理条件です。相手が嘘つきかどうかを、これだけで判定することはできません。
自分で考える小さな問題
「この文は日本語で書かれている」は自分自身について語っていますが、嘘つきと同じ矛盾は起きません。自己言及する文が、すべて危険なわけではないのです。どこで否定と真偽の判定が組み合わさったのかを見てください。
似た用語と読み比べる
カリーのパラドックスは否定を使わず似た難しさを生みます。ラッセルのパラドックスは集合の条件を自分自身へ適用する問題です。
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